生まれた直後から京都の宇治で育ったのだが、
出身地が京都というわけでもないので、
長らく両親の出身地である石川県ということにしていたのだが、
ある時から東京・三鷹生れに変えた。
それが事実だからである。
私の母は、
その頃東京・三鷹に住まっていた両親の元へ行き私を生んだ。
母の父、つまり私の祖父は丸岡耕甫という金沢の庭師なのだが、
当時電力王と呼ばれた松永安左衛門(耳庵)に依頼され、
その頃東京・三鷹に別宅を構えて、
安左衛門の別荘「柳瀬荘」の庭を手掛けていたのだという。

実は、
松永安左衛門を紹介したのは北大路魯山人であった。

魯山人は1925年、東京永田町に「星岡茶寮」を開き、
そこに政府・財界の要人・文化人が招かれ、
茶会は社交の場であったのだが、
魯山人の依頼を受けて「星岡茶寮」の庭を手掛けたのも
祖父であった。
それが縁で松永安左衛門とも知り合ったのだろう。
祖父が金沢の素封家であったかどうかは知らないが、
庭師ながら茶をたしなみ粋の分かる人物で、
金沢にいた頃の魯山人は、
足繁く祖父の家に出入りしていたのだそうである。
これが縁で、後に祖父は魯山人から、
「星岡茶寮」の作庭を依頼され、更には
松永安左衛門とも知り合って、作庭を依頼されたのだ。
そういえば母は私が幼い頃、
よく「松永さん」「松永さん」と言っていたのだが、
それは母が結婚する前、松永安左衛門の名古屋の家に、
行儀見習い!?で、一時期身を寄せていたからである。
私の出生に関わる説明をするとこういうことになるのだが、
二人の歴史的人物を知る人には話す価値ありと思い、
出生地を出身地ということにしたのである。
尤も、
北大路魯山人はともかく松永安左衛門となると、
知らない人も多くなったので、
話す相手を選ばなければならないが…。